「僕が欲しいんだろう?」
口付けで濡れた唇が、ぐにゃりと飴のように捻くれる。
「ほら、おいでよ。君が望むだけ僕をあげるから」
笑いながら霞流慎二は、ゆらゆらと細い腕をこちらへ伸ばす。
「大丈夫。僕は、君が望む通りに変化できる。君の望む僕を差し出してあげられる。そうだ、僕は都合の良いジョーカーみたいなものだ」
地響きのような音楽の中、明滅する明かりの中を、霞流はゆっくりと美鶴に歩みよった。
「さあ、君が望むのは、どんな僕?」
「うわぁぁっ!」
美鶴は目を覚ました。間違いなく美鶴は起きている。今は夢ではない。それは自身も自覚している。
なのになぜだか信じられなくて、美鶴は両手で両の頬を押さえた。
力が入らない。
両手を唇に当て、ギュッと拳を握ってみる。だが、やはり思うように力が入らない。代わりに震えが増す。
震えている。
両手で二の腕を抱きかかえた。
柔らかな、滑るような慣れない手触りに違和を感じ、ようやく辺りへ視線を向ける。
右に窓。レースのカーテンがふわりと揺れて、風が品良く入り込む。目の前には木質のチェスト。アンティーク品だろうか? それとも、それらしく見せているだけの品だろうか? 手元に視線を落すと、これまた清潔に整えられた掛け布団。だが、整っているのは太ももまで。それより上は捲れ上がっている。
美鶴が跳ね飛ばしたのだ。
ここは?
ベッドの上に上半身だけを起こして呆然としている自分。そんな自分ですら、見知らぬ存在に思えてしまう。
どこだろう? 知らないな?
美鶴は視線を窓へ移す。
いや、やっぱり、どこかで見たことがあるような気も――――
カーテンが陽射しの波を奏でる。その向こうに広がるのは手入れの行き届いた庭。庭の周りは化粧ブロックとフェンスで囲まれており、その先は斜面になっていて見えない。
なんだこれ。既視感?
しかし既視感というものは、経験した事のない体験や見たことのない景色を、あたかも以前に一度得たのではないかという錯覚を指す。
今の美鶴は、少し違うような気がする。
なぜ自分は、あの窓の向こうの景色を知っているのだ? 錯覚や想像ではなく、本当に自分は、どこかでこの景色を見ている?
見開く美鶴の目の前に、景色が広がる。
塀の向こうから空が明ける。まるで天空に立つかのような眺め。白々と光輝く、荘厳であれど、どことなく穏やかさをも醸し出す世界の中で、二つの人影が動いた。
―――――っ!
小さなノックの音が響いた。顔を向ける先には開き戸。間を置かずに女性の声が問う。
「大迫様? お目覚めですか?」
一瞬、言葉を失った。知らない声のようでもあり、でもどこかで聞いた事もあるような。いや、それよりも、なぜ自分は名前を呼ばれるんだ?
返答に窮していると、再び声が問う。
「大迫様?」
「あっ はい」
もうほとんど条件反射のように返事をしてしまった。起きたばかりでまだほとんど機能していない頭であれこれ考えても、所詮は無駄というもの。
「お目覚めですか?」
言いながら、カチリと小さな音と共に扉が開く。だが、それはほんの少しだけ。
「よろしいですか?」
小指がなんとか入るであろうぐらいの隙間の向こうから、声がする。扉が開いたせいか、少しだけ聞き取りやすくなった声。
やっぱり、どこかで聞いたことがあるな。それも、すごく最近。
だが思い出せず、靄のかかった頭を捻りながら美鶴は小さく息を吐いた。
「どうぞ」
ゆっくりと扉が開いた。
「おはようございます」
美鶴はその姿に息を吸い、ゆっくりと、できるだけの自然を装って言葉を吐いた。
「幸田さん」
|